昭和44年10月26日 朝の御理解



 御理解 第76節 
 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。と」

 人が助かるとか助けるとかと、言うことのその幅というか深さという、広さというかそりゃもう、大変なものだとこう思います。今日私ここの中から本当に自分が助かっておかなければ、例えば人の難儀を見ても助けることを出来ないし、人を助けることができると仰るが、人を助けることもできないというその、高度なところを、一言聞いて頂きたいと思います。それは様々ですがね、人が鼻緒を切らしている。
 困っておられるときに、自分のタオルを破って差し上げる。それもやっぱり人を助けることですからね。そういう意味合いから言う、助けることができるということもやはり人間です。やはり牛馬じゃできませんもんね。けれどもそこでほんとにあの、人の難儀が人を助けるとこう仰るがその、ほんとに人を、人が助かると。ほんとの難儀が助かると。助けられるということは、何というても。
 自分自身が真実助かっておらなければ、助ける事は出来ませんそういう所をね、今日の豊美のお別れのパーティーが、園遊会の形でしかも信徒会の名においてまあ模様されると言う事になりまして、まぁ大変な事でしたね。昨日その準備にそれこそおおわらわでございましたが、夕べ皆さんが帰られましたのは12時過ぎてからだったでしょうか。昨日も全部福岡の連中が今日改めて、服着替えてこなければならないと言う様なね。
 全部帰られましたんです。帰りがけにまぁあのお茶一服頂いてからと言うてお茶一服頂きながら、秋永先生がそれこそ考え深げに言っておるんですね。「親先生さすがに、もう合楽ですばい」っち言うてから。どんなに考えましても、親先生、今日一日こうやって、設営なら設営の御用を頂き、そして夕方から、この、衣類とか、頂いたはなむけというものやらの飾り付けが、やっぱ相当の時間かかりました。
 そりゃもう呉服屋さんたちが、6人も7人もおりますから、もうほんとに(   )で、見事なことですよ。そういうふうな様々な御用を一日頂いてです、ほんとに流石に合楽だなあっていうものをですね、もうほんとにとやかく言う、何とかかんとかやかましい、声大きくして言うたりしよるけれども、なんと言うてもです、神様の一分一厘の間違いのない働きの中に、こうして御用にお使いまわし頂いておる事が分かりますと言うて、昨日言うておられます。第一天候がそうでしたね。
 昨日の朝まではいや夕べの夜中は、言うならだだぶりのお天気の中に、こうしてスカッとしたお天気のおかげを頂いて、午後から設営にかかられましたが、皆さんその設営の時には、ここはみな砂利やら砂ばかりですから庭が。もうほんとにスムーズにしかも思いがけない人達が、応援に来て下さったりしてから、その設営が終わられそしてまた、夜の、今日の設営を勝手の方といい、又はその飾りつけの事といい様々な中に、もうそれこそてんやわんやの中に神様の間違いの無い働きを頂いておるということ。
 なんと言うても合楽ですなぁとこういう。そういう間違いの無い働きの中に、私共があり、御用におつかいまわし頂いておるということを、考えそれこそ深げに、先生お茶を頂くなりに、話しております。ほんとに昨日の朝の御理解じゃないですけれども、それこそ一分一厘の間違いのない働きがです、信心もできんのにこのお広前の上に、色々とほんとに天地が自由になって下さるほどしのおかげが、現れておるということ。
 まあそういう中から私は色々感じさせてもらうんですけれども、私は思いますですね。信心の喜びとこう、一口に言いますけれども、この信心の喜びというのは、私普通で言う喜びとは違うと思う。信心の本当の上においての喜びはですね、どんなときでも喜べる心。これが信心の喜びです。いわいる妙賀であります。喜びの妙である。またどのようなときでも、安心しておれる心。
 どんなときでも、心が平常心である、あれるということが、私、信心で言う安心だとこう思うです。だから、普通で言う安心しとりますという安心とは、違う。今日私は、人を助けるということの、いわばピンからキリまでありましょうけれども、本当に助けることができるというのは、自分自身が本当に助かっておらなければならない。自分自身が本当に助かるということは、まあ、ここに申します。
 いわいる本当の意味においての信心の喜び、本当の意味においての信心で得られるところの安心のおかげを、私頂いておらなければ、本当の意味での人を助けるということはできないと思う。そこで例えて言うと、今日の園遊会のことについて、お天気のことについてのちゃんとお願いが、まあしてあるわけでございますけれども、合楽で何かがある時には、必ず天地が自由になって下さる。
 必ずお天気が頂けれるという確信も有り難いことです。けれどもですね、例えば降ってもいいという心です。その時はもう、濡れるまでだという心です。いわゆる死んでもままよという心です。降り照りのことはやはり人間ですから、降らんがよい時には降らんがよいから、降らんがよいように願ってもです、その願ったその向こうには、どうでもよいという心です。降るなら降れという心です。
 そんときは、いさぎよう濡れて良いという心ですよ。それが私は本当の安心じゃないかとこう思う。合楽に何かがあるときには必ずお天気になる。降りよっても、降りやむという確信も有り難い。けど、そのもういちょそこの奥にはです、安心しておれれる心。それは濡れても良いという心なんです。ですからもうどんばらが違うわけです。これが本当の信心で言う安心だというふうに思います。
 昨夜私もうお風呂に入ったのが1時位だったでしょう。皆さん帰られた後に、まだ豊美達兄弟で茶席がもうけられますので、ならその茶席もまあ万事万端の上に不行き届きが無いようにというので、まあ色々とその準備をいたしておりましたので、とにかく1時すぎましたでしょう。私がお風呂入ったのが1時。お風呂上がってからまだ家内がお風呂入ってないというから、家内を探して参りましたけれどおりましぇんもん。
 それから私はお広前いっても、ぐるっと周りましたらここの衣装が、準備してございます、私の部屋に小さい向こうの床の間の方につきます、小さい電気をひとつ付けてから、家内がそれこそもうちゃんと一人座ってから、衣装を見よりますもん見よるっちいう訳でもないですたいね、電気まで消してからですから。私はもうハッとこんな所におると思うてからもう本当に私自身胸をつかれる思いが致しましたんですけれども。
 ほんとに、いうそれこそ素晴らしい、とにかく十万以上の衣装ばっかりです。ここに出ておりますのは。私、昨日初めてそれを聞きました。始めから値段どん聞いとるなら、とても買いきらんのっち言うたこってございました。十何万というような着物が、だぁといっぱい、広げてございます。そういう例えば、豪華な、いうならば、絢爛とまではいかんに致しましても、そういう、その、豪華な、衣装の中にです。
 一人でジッとこう、見るともなしにみて思うておること。いうなら家内の心を去来するもの。あの人が豊美ですね。豊美が生まれたときから、それから今日に至ります、27歳までお育てを頂きました今日。そして思いもかけないこのような縁談のおかげを頂いて、もう幾日かののちには、他家に嫁がせなければならない、その準備が親の私達としては、なんの力もない私達が。
 もう娘であるところの豊美の、結婚ということになれば、この様な事にでけてそれこそ、まあこれは家内の心の中に、色々とそれこそ走馬灯のように思いめぐらされておるであろうと思うことなのです。私が胸がつかれる思いがしたというのは。産まれるときには、北京産まれですからあのひとは。まあ幸せないわば、誕生でございました。あちらで私が、まあいうならば大変な勢いのときでございましたからね。
 けれどもこちらに帰りましてから、というものはあたしの、福岡のあの人は、あの小学校、大名学校に行っとります。そりゃもう小学校では名門校ですね。ですけれどもそれこそ雨の降る日は傘がないというては、学校に行けなかった時代があったことです。下駄は私が拾うてまいりました下駄を、家内が(  )の下駄を作ってはかせて、学校にやりましたときのことです。
 それからいうなら20年余り、今日このようなおかげを頂いて、様々なこともあったけれども、まあおかげを頂いたもんだなあと。そういうそれこそうれしいやら、悲しいやらという考えの中に、私はもうやんがて2時にもなろうという時間にです、私が探して回っておるのに、返事もしません。私がお母さん、お母さんって言うております、探しよりますけれども。ちゃんと座ってそのこん中で、衣装の中にいわば埋まるようにしておる、その家内の姿に触れて、私はそんなもんを感じました。
 ですから、その例えば25年間の間にです、あたくし共の信心の内容がです、今日皆さんに聞いて頂きます、どのようなときでも、安心しておれる心。どんなときでも、喜んでおれれる心こそ、信心の喜びだとわからせてもらい、でけてはおりません、おりませんけれども、それを目指しての信心。それが、私は今日の合楽のおかげにつながっておるんだという思いがしたのでございます。
 信心の安心というのは、平穏無事、何でもないときに安心しておれるのは、誰でも安心です。けれども、例えばなら、こうして、昨日秋永先生が、言われるね、「なんというても合楽ですばい。」御用頂きよってそのはしばしに、神様の一分一厘間違えのない働きを感ずるち。一日こうやって御用頂きおわってです、なるほど、こう色々というけれどもです、いくら言うてもその中にです。
 あたくし共が、こういうお使いまわしを頂いておるということを思います。とりわけ、お天候なら、お天候のことを考えましても、昨日の朝まではじゅうじゅう降りであったお天気が、このようにおかげを頂いて、今日また継ることであろうがね、おかげをうけておる。神様がほんとに、天地を自由にして下さることが出来れるというような働きの中に、あたくし共が御用を頂いたという。
 ですからそういう天候なら天候の事だってです。合楽の場合はおかげが頂けれると確信される、そこから生れて来るのも安心ですけれども、よし万一降ったところでです、濡れてもままよという心なんです。それが信心でいう本当の安心なんです。それを死んでもままよという心になれよと。十二分の徳をうけようと思えば、ままよという心になれよと。なるほど、こういう、一つの安心には、徳が受けられるはずだと思います。
 十二分の徳をうけようと思えば、ままよという心になれよと。ままよとは死んでもままよのことぞとこういうようなこと。どんなときでも喜べれる心。それが信心の喜びだと今日私が申しました。そういう私共は喜びを目指させて頂いて、おかげをこうむってまいりましたらです、なら昨日、これはわかりません。家内の心の中のことでございますから、けれども、そのこやの中に一人、つくねんと座って。
 衣装の中に、家内の心の中に去来する心というものは、それこそあたくし共が、布一寸買いません、下駄一足買いませんと神様にそれこそ、深い、硬い誓いを夫婦でさせて頂いて、様々ないうならば、かんなん辛苦がございましたけれど、その中に目指すものはどこであったかというと、只今私が申します、そこなんです。いわゆる信心で頂くところの安心であり、信心で頂くところの喜び。
 それがまぁだ、完璧なものでもなからなければ、ほんとなものでもないのですけれども、人が助かるということになっておるということを思うときにです、今日の御理解がいきいきとしてくるように思うのでございます。人の難儀を助けられるのが有り難いと心得てということの内容にはです、私そのようなある意味での厳しい修行が、また、必要であるということですよ。また、目指すというところはです、ね、焦点を間違えておったんではです、そのようなおかげにはなってこないであろうということです。
 信心のいわば、真の喜びを目指しての信心。信心でいう、安心のおおみかげ。そういう、高度な信心を目指しての信心。そこから、あたくしは、おかげが受けられると思います。私共が、休みましたのはもう2時半でございました、昨日は。家内が風呂から上がってまいりましてから、私もあれやら、これやら思うて眠られなかった。家内が風呂から上がって、まいりましてから。
 それからまあそれこそお母さん、どげん考えたっちゃおかげばいっち言うてから、それを言い(  )っとたら、もう2時半になってもうお父さん休みましょうっち言うてから休んだんですよ。どうぞ一つおかげを頂きまして、今日の朝合楽食堂の中村さんが「今朝方お夢を頂きました」っち言うて、沢山の人がおられますけれども、豊美さんだけしか見つからん。その豊美さんがね、おにぎりを頂いておられるご飯を。
 それを、中村さんがね、後ろから見、前から見、右から左らもうあらゆる角度から眺めてですたい、はあ、豊美さんがおにぎりを頂きござるって言うて眺めおるところだった。今私が思うておること、家内が昨夜おそらくそういうふうに考えたであろうと思われる、どげん考えたっちゃ、どこから思うても、どこから考えでも、豊美が今度、ままになるということ。おにぎりを頂いておるということは、ままになっておるということは、とてもとても、ただ事ではないぞっというものなんです。
 秋永先生が言う、「さすがに親先生、合楽ですばい」というその内容。それがですどこから見てもです、どげん考えたっちゃというのはどこから見ても、神様のおかげを頂いておるということを、実感せんわけにはまいりませんという、おかげ。そういうおかげを頂いて、まあ、いうならば今日そういう一つの、豊美の結婚ということについての、まあ言うならば、花が咲いたような、豊美がままになるということ。
 勿論花が咲くだけですから、それが結実結実ね。いわゆる実りというところまでおかげを頂かなければ、できませんことですけれども、まただからというて、有頂天になることなしに、本気で引き締まった信心をまあ夕べ遅く家内とそのことを話させて頂いたんですけれども。信心もできんのに、このようなおかげを頂いて、どげな信心してこれにお応えするかと言うてから、申しましたことでございます。
   どうぞよろしゅう。